プロフェッショナルでもなく、スペシャリストでもなく
岡本太郎の名著「自分の中に毒を持て」を読む機会にやっと巡り合えた。
「芸術=人間の復権」と説き、人間が人間らしくあるために誰もが「芸術家」であるべきだと主張する岡本太郎の言葉には誰もが強く揺さぶられるのではないだろうか。彼が言う芸術とは「生きること」であり、つまり、「死と直面すること」である。この意味では、前回話題にした草間彌生の芸術に対する姿勢をも彷彿とさせるものがある。彼女のセルフ・オブリタレーションはまさに、死、あるいは恐怖と直面することであり、そのことでかえって生き生きとしてくるというこのパラドックスこそ、ロゴスの裏に永遠に隠され続けている真理めいた謎である。
ところで、僕は「プロフェッショナル」あるいは「スペシャリスト」という言葉
の持つ何か厭な感じを常々気にしていた。プロフェッショナルとは言い換えれば職業的な洗練であり、スペシャリストになるとはひとつのことに特化してゆくことである。
何か一方向、一つのことに収斂してゆくというのは実にすっきりした気持ちの良い構図である。誰でも、そうした構図を思い描くし、思い描かざるを得ない。まとまること、すっきりすることに対する願望は、まさに人間の本能である。
だから、ひとつの職業に打ち込み、ひとつのことに長けてゆくということは、我々の理想像に重なり合うのだ。たとえば、もやもやと付き合っているより、いっそ結婚して「一つになる」ほうがすっきりするというのも、同じ原理だろう。それは「結果を出す」ことであり、理想の「ゴール」であるとされる。
この二つの言葉を聞いたとき、魅惑的な響きを感じるのはそのせいであろう。それはいわば本能的なものであろうから、けして間違ってはいない。
しかし、この原理が何のために用いられるかということが、大きな問題である。
すっきりさせるべきもの、それはいったい何なのか。もしそれをすっきりさせたらその後自分は何になるのか。当然そういった疑問が湧く。
僕自身は、すっきりするというのは、死ぬことではないかと思っている。死んだとき、ようやくすっきりする。人間は生きているあいだは永遠にすっきりしないのであり、それを肯定するしかないのだ。すっきりさせた後というのは、死後の世界だ。すると、すっきりさせるべきものは、この鬱陶しい自分自身の生ではないかということになる。つまり、死に向かって収斂してゆくことが人生の大目標だというわけだ。
自分自身の生をすっきりさせるということは、ちょうどなにか作品を完成させることに似ている。それは鬱陶しさを振り払ってゆく闘いだ。襲いくる鬱陶しさの正体は死だ。その意味では、我々はいつだって、死と隣り合わせなのだ。その死から逃れるために、我々は闘い生きるのだろう。
だとすると、我々の生そのものが一個の芸術作品で、それを己の手によって作り出す、つまりわれわれは、自分自身を創作する芸術家であるとも考えられよう。
僕はその意味で万人が芸術家であるべきだという考えに賛同する。そしてその芸術家の作品は何らかの形にされ、残されてゆくべきである。
その人生という作品のテーマは、あらかじめ定められた枠のなかに収まるものではけしてない。それは文字通り開拓であり、「誰もが経験する機会を与えられた」開拓である。「私」の将来を予見できる神様はこの世のどこにもいない。人生は究極のオリジナルである。だからこそ、全力を投じて開拓してゆかなければならない。
ところで、この世のなかには、仕事、恋愛、趣味、さまざまな生き方のカテゴリーがあらかじめ用意されている。職人、商売人、技術者、仕事のなかでも、たいていはどれか一つを選んで、その世界に専念して優秀になることを誰もが望む。それがあるべき人生創作の仕方ででもあるかのようだ。子供は「将来どんな仕事に就きたい?」と考え、女の子は「どんな恋愛がしたい?」と考え悩むわけである。
しかし、僕はこの些細な問題、いわば小目標に、どうしてそれほど思い患う必要があるのだろうかと、ときどき思う。人生創作に、自ら進んで枠など設ける必要はそもそもないのだ。なぜ人生を特化し、専門的にして洗練してゆく必要があるだろうか。洗練や特化というものは、創作のあと、結果的に振り返るものだ。たとえば、思えば50年生きてきて、自分はこんなものが得意だったのだ、こんなものが好きだったのだ、そうして振り返ったときにはじめて価値がある。最初から枠を設けるなんて、まったくナンセンスではないだろうか。
われわれには「あれか、これか」選択を迫られることがよくある。もちろん逃れられない決断は多い。そして、進んで決断してゆくことが、人生を前に進めてくれる場合もある。だが、決断とは、究極的には、一方を採用し、他方を「切り捨てる」ことである。切り捨てた方のものが無価値だったら良いが、そうとは限らない。そんな場合無理に決断を下すべきでない。切り捨てたほうのもののことを考えてみたいものだ。実にもったいないではないか。「あれも、これも」したいという発想のほうがずっと豊かだ。ずっと率直で誠実である。
僕は、専門化し、特化してゆく生き方に反対する。人生創作は、幅をもたせてこそ豊かになる。なぜなら、その目的はけしてうまく生きることではないからだ。それはまさにいまを生きることであり、人生を生きることだからだ。
岡本太郎の著書を読んで、そんなことを考えた。