ノスタルジック・リヴァイヴァル―服飾に関すること
「ポスト」モダンにいる現代人は、近代にある種の憧れを抱いている。此岸から彼岸を憧れるのではなく、彼岸から振り返って此岸を夢見ているのである。たしかにそれは憧れとまでは言えない場合も多い。なぜなら憧れるにはまだ早すぎるからだ。我々は精神的支柱として、近代的な精神をいまだに多く頼っている。制度的には近代を受け継いでいる現代社会では、それほど近代に憧れを抱く必要はないのかもしれない。現にそのなかに生きているからだ。だからそれは多くの場合、憧れと言うよりは未練なのかもしれない。捨てるに捨てられない近代的なもの、それを持て余しているのだ。「主体たる個人」である私の、唯一の「目的」や「理念」、「男らしさ」や「女らしさ」、強く逞しい「自律性」、絶対にブレない「一貫性」、伝統的に我々はそういったものを必要以上に意識してしまう。我々は、近代的な、強く逞しい人間像に大きな憧れを抱いている。そして、そう言った理想を思い描くように、社会は我々に仕向けているようにも思える。
無論、いつの時代においても若者はそうした既成概念との葛藤を体験する。つまりいつの時代においても、前の時代を終わらせ、新たな価値観を以て時代を更新することを願望するものだ。そうやって近代は何度も更新を重ねてきたが、なかなか近代は終わりそうもない。
さて、しかしその近代の延長線上にはどんな理想が存在するのかというと、科学技術や医学といった分野においてはどうか分からないが、とくに文化的なフィールドにおいては実に混迷を極めているように僕には思える。我々は共通の言語で、共通の理想を語ることがもはやできない。(たとえば30年前にそんなことができたのか、僕には実感がないので分からないが)。そして何より、我々はどうやって近代を更新してゆけばよいのか、具体的なイメージを持ちえていないのではないだろうか。
そこで僕は「近代を懐かしむ」という、ある意味で気取った生き方をしてみたいと思っている。彼岸に渡り切れていないことは重々承知しているのにも関わらず、あえて背伸びをして、過去を振り返ってみるのだ。過去と言っても、僕の生きたことのない過去である。こうした感情は一種の懐古趣味であろう。近代っぽい考え方からすると、それは軟弱で非生産的な感傷趣味だ。この「近代」氏の忠告は実に重い。「近代」は、新しいものを生産して前進し、開拓を続けることを前提にしてきた。僕という現代人もまたその申し子であるから、父なる「近代」の言葉は無視できないのである。しかし、我々のフロンティアは前にはないようなのである。否、無論それは前にあるのには違いないが、いままで近代が前駆してきたようには、我々の近代は前へは進まない。僕にはそのように感じる。
我々に足りないものは何だろう。たとえば我々の町に足らないものは。我々の服装に足らないものは。それはちょうど「懐かしむ」ときに湧き起るような、情緒性ではないだろうか。それは夢と懐古が織り交ざったような「寂び」のような感情である。たとえば、ヴィクトリア朝の家具や雑貨に囲まれた空間に足を踏み入れたときに感じる、ある種の「寂び」、この感情を普段我々はなかなか味わうことができない。
ノスタルジックなものに対する感動が、いつになっても非生産的で、退嬰的なものと見做されていることに対して、僕はいつも苛立ちを感じている。無論それが受動的な消費として完結している場合には、何の生産性もないのは明白である。そうではなく、それを能動的に生産してゆく、クリエイティブな行為として機能させてゆくことはできないだろうか。
たとえばファッションにおいてはどうだろうか。
当面、服飾におけるノスタルジック・リヴァイヴァルについて考えてみたいと思う。