my1988

思考と表現の練習用ブログ。

「偽装」という修辞法

偽装と言う言葉が建築や食品をめぐって何度も世間を賑わせてきた。「偽装」は流行語にさえなる。偽装の話題は、消えたと思ったら、しばらくするとすぐにまたおもてに現れてきて、結局はいたちごっこのように永遠に繰り返されるということを、我々はもう半ば知っている。

「アメリカ音楽文化の歴史は偽装の歴史である」といったようなことを、昔、本で読んだことがある。僕はしばしばこの本のことを、結論の部分だけ思い出す。「偽装の歴史」とは、よく言ったものだ。僕は、それがアメリカの音楽文化を特徴づけるのかどうかよく分からないのだが、我々はいつだって、ともすると「それは偽装じゃないか」といちゃもんをつけられそうなことをこっそりやりながら生きているのではないかと、ときどき思うことがあるのだ。この偽装というのは、自分を、つまり自分の身分や、自分の心をである。無論日常的な偽装はたいした偽装ではないのかもしれないが、なにか大失敗をやらかしたときなどは、「そうか、自分を偽っていたからこんなことになったのか」と反省する局面が必ず来る。今日書きたいのは、そのような「私的な偽装」のことである。

こうした類の偽装というのは、一種の自己欺瞞だ。だから、ばれなければよいというものではない。というよりも、隠し続ければ隠し続けるほど、自分を欺くことになるし、社会的な偽装問題ほど誰も関心を持っていないから、告発さえされない。これを告発できるのは、自分ただ一人である。よその人は、彼の偽装が迷惑だとか不愉快だとかと思うかもしれないが、知らぬ話である。誰も面と向かって告発までしてくれない。

だいいちそれが本質的に偽装かどうかさえ誰にもわからない。なぜなら、「何を」偽っているのか、その本来の正しい姿とは何かを誰も知らないからである。偽るというからには、なにか本当のことがある。生の果実を絞ってフレッシュジュースはできるし、チョウザメの卵を塩漬けしてはじめてキャビアと呼ばれる。それが加工品のジュースやトビウオの卵だったら、フレッシュジュースでもキャビアでもない。だが、心というものは、偽らざる本当の姿が何かというのがいまひとつはっきりしない。だから自分が偽装しているかどうかの究極の根拠を、我々はついに見つけることはできない。

僕は一度、「人間というのは、偽装して生きてゆくものだ」と考えてみたことがある。人間は偽装して、偽装して、偽装を続けてゆく。そして、その偽装をし通したものこそ真の勝者なのではないかと。

いくぶん戯悪趣味な考え方であるが、本心と言うものはそんなに人前で剥き出しにできるものでもあるまい。だいいちその本心とやらを自分だってよく知らないのだ。それはひょっとすると長い人生のなかで次第に明らかになっていくようなものである。歴史が、本心の多くの部分をあとから決定してゆくのかもしれない。であれば、ひとまず偽装するしかあるまい。偽装して体裁よくしておくほかないであろう。どうせ偽装するのだったら、体裁よくしない法はない。見せたくない部分は隠し、見せたい部分だけをできるだけあざやかに見せる。たとえば発声から、表情から、言葉の統辞まで塗り替えてしまう。こんなことを案外人は、半ば無意識的にでも、平気でしているのではないだろうか。

僕がポジティブで魅惑的で、信用のおけそうなものを見ると、そうしたささやかな偽装を感じずにはいられないのは、自分がそんなことを常日頃からしているからなのかもしれない。だがむろん僕はいちいちひとの偽装を告発する必要もない。何をもって偽りとするか客観的な基準を知らないし、それを偽装すること自体が悪いことなのかどうかもはっきり分からないからである。僕はただ不愉快であったり、利害が対立した場合にだけ、それを指摘する。それも告発ではなく、指摘だ。この種の偽装を告発できるのは、やはり本人しかいないだろうからだ。

ささやかな偽装も、続けているうちにともするとだんだんと大きくなってゆく。いずれは限界点に達して、あるとき突如として破裂を迎えることになるだろう。それは、絶望の裏側である。絶望とは理想が裏切られた状態だ。理想が裏切られたとき、自分の偽装を恨まなければならなくなるというのは、逆に言えば理想へ向かって進んでいくためには、偽装を続けることをやめることができないということの証拠だ。理想に向かうための方法として偽装する。それはやむなくすることであるには違いないが、そう考えると偽装は少しばかりポジティブでもあるように思う。それはいわば人生の修辞法のひとつではないか。混沌からあるひとつの人生を形作ってゆくその過程で、偽装は残念ながらやむを得ない。偽装なしで人生は済まないのだ。

それにしても、「偽装し通したものが真の勝者だ」というまえの説は、我ながら受け容れがたく思えてならない。そんな出来過ぎた虚偽の人生にはとても幸福の片鱗さえ感じられない。そのような者の世界は、残酷で哀れな「ヴァニティ・フェア」であるにちがいない。身分を偽り、人生を偽り、心を偽る。偽ることの罪悪感を常に胸にしながら、絶望を繰り返し、またあらたに偽装を続けてゆく。

―とはいえ多かれ少なかれそんなことは誰だってしているのだ。だからむしろ、やり通す必要もなく、やり通したところで勝者でもなんでもない。偽装は早く破裂すべきである。絶望して自分と向き合う時間は、できるだけ無傷なうちに訪れるほうがよい。偽装が破裂したときに直面する「顕わなる自己」をいかに見つめられるかということにこそ、勝者への道が懸っていると思わなければならない。

絶望の後のあらたなる偽装が、それ以前の偽装よりも少しは正直になっていなければ、救いがないというものだ。