近代的な理想、「本当の自分と向き合う」 ―平野啓一郎「私とは何か」
このブログを書き始めた最初の頃から、僕は「自己と向き合う」、或いはより正確には「本当の自己と向き合う」という、実にありふれた問題について直接に間接に触れてきたように思うのだけれど、実のところ同時にこの「自己」という概念が、如何ともしがたい現実との齟齬を孕んでいることについても、これもまたありふれたことに、なんだか釈然としない、歯痒い思いを感じてきたことは、とくに同時代人の方には容易に想像がつくところだろうと思う。
ポストモダンの思想では、主体である「私」は解体されてゆき、同時にその主体が持つ目的や理想もその超越性を喪失する。しかし一方で、自律的でブレない超然たる「私」はいまだに語り続けられているし、社会はけして、科学技術が人間の銭勘定や車の運転技術の重さを減じてくれるようには、人間の責任能力の重大さを減じてくれるわけではない。どうやらむしろ、我々は今までどおり、あるいはそれ以上に個人主義における責任を果たし続けなければならないようである。つまり、その意味で我々はまだ近代人なのであって、仮にポストモダンという、僕にとっては使い慣れない言葉をあえて使うなら、それはまだ十分に「近代」の一部なのではないかと思うのだ。
話がややこしくなったが、要するに僕は、いくら目的や理想がぼやけた感じになっても突きつけられる、「主体たる自己」という、この実際よく解らないものを、持て余しているのだろう。そこで一般的には、そのぼやけている目的や理想を探すために所謂「自分探し」の旅に出て、なかなか帰ってこられなくなるか、「主体たる自己」を完全にただ「主体のための自己」にするために他者との関係を絶ってしまう「引きこもり」になるか、・・・こうしたことが80年代以降よく語られてきた典型的なパターンであろうと思う。
この「私とは何か」問題について、小説家の平野啓一郎が2年前にまさにそのままの「私とは何か」という題の文章を書いていて、そのなかで「分人」(dividual)という概念を提唱した。彼はこれ以上分けることのできない最小単位としての「個人」(individual)に対して懐疑的である。まさにdivide(分ける)に否定の接頭辞inのついた「個人」という概念は、ひとりの人間がそのうちに様々な感情を抱き、ときには相互に矛盾するような複数の立場に同時に置かれうる(現におかれている)ことを考えると、果たして最小不可分な単位として妥当であるか、という疑問が思い浮かぶ。氏はその点を指摘している。A氏といるときの自分、B氏といるときの自分、職場の自分、家庭の自分、書斎にいるときの自分、それぞれがみんな違っている、というわけである。それでは、その異なる自分は、どのようにして出来ているのであろうか。氏は、その場その場の環境の、その場その場にいる人々とともに形成されているのだと考えているようなのである。高校時代の友人たちと共にいる自分は、彼らとともに、大学時代の友人たちと共にいる自分は、大学の彼らとともに。だから高校時代の友人と、大学時代の友人が同席したりすると、たちまち混乱して困ってしまうというわけだ。
こうしたその場その場での顔、つまり「分人」を最小単位にした思想すなわち「分人主義」を、氏は構想しているのである。この思想は文章の最後のほうで、「文化多元主義」「多文化主義」になぞらえて、「分人多元主義」や「多分人主義」という表現に置き換えられている。「分人多元主義」は、文化多元主義における「国民」というアイデンティティーがすなわち「私」というアイデンティティーに置き換えられるのだ。まず私があって、さまざまな分人がいるのか、さまざまな分人がいて、結果的に私が成立しているのか、そのどちらがよいかという議論はこの本ではあまりなされていないが、とても意義深い指摘だと僕は思う。
こうした観点に立てば、個人の自律性や言動あるいは言動以前の一貫性といったものは、今までより遥かにその意義を失うか、まったく違ったものとして考えることになるだろう。契約書を取り交わすレベルでのある意味形式的な個人は残り続けるだろうし、これは早急に廃止されるべきものでもない。社会的な責任の所在はむろん従来の「個人」のままである。しかし、この「個人」を作っているのは実は「分人」なんだ、というのが、この話の中心問題である。つまり、社会でも「市民」や「人民」が革命を起こせば政治を変革できるように、あるいは移民の人数やヴァリエーションによって、社会の様相が変わるように、「分人」の在り方や「構成比率」が変われば、「個人」には様々な在り方の可能性がある、ということだ。たとえば、「どういう私になりたいか」というプランがあるのなら、どういう分人を開拓してゆくべきか、すなわちどういう環境に身を置き、どういう人間と付き合うべきか考えることができる。このようなことを氏も言っている。平たく言えば、様々な感情や考えを持つ個人を無理に統合しようとするより、分人とうまく付き合ってゆくほうが、ずっと有効で合理的だと言うのである。
だから、ここからは僕の考えになるが、自律性や一貫性という言葉は、国家概念に置いてすでに古臭くなりつつあるように、「私」の概念においても同様に一旦放棄してはどうか、そういうことではないだろうか。社会的な責任の問題はひとまず括弧に入れるとしても、「私の中の(この)わたし」「私の中の(あの)わたし」という、今までマンガのなかか子供の会話のなかでしか存在しえなかった概念を、より具体的に表面化してゆくことは大変意味のあることではないかと僕は思う。なぜなら、自律的で一貫した人間などというのは、そもそも存在しないだろうし、いたとしてもそれは大いなる取り繕いか、何らかの大きな矛盾を抱えているだろうからだ。
さらには、単一文化主義的な「私」観、すなわち「あれか、これか(さもなければ、絶望か)」という考え方もまた同様に一旦放棄したいものだと僕は思うのだ。「私は誰であるか」と言う答えに対して一つの答え、あるいは平野啓一郎風に言えば「一人の分人」しか出てこない、出てきてはいけないというのはなんとしんどい、なんと寂しいことだろうか。それは、「今最も表に現れている分人」の意見に耳を傾けているに過ぎない、幸か不幸か、実はそれだけのことだったりする。明日になったら、また別の分人が別のことを言うのかもしれない。
ただし、それでもなお我々は自分にこう問い続けるのを止めないだろうと僕は思うのだ。「本当の私とは何か」。哲学について考えるとき、我々が「真理とは何か」という問いを未だに止めないのと同じようにである。
ただひとりの伴侶。ただひとつの愛。ただひとつの仕事。ただひとつの理想。ただひとつの目標。我々はフォーカス・オンが大好きなのだろう。そうでなければならないと思っているし、思わなければならないようにこの世界ができている。そのように思えてならないのだ。
ただひとつの人生。結局のところ、それだけで十分のように僕には思えるのだが、どうだろうか。