my1988

思考と表現の練習用ブログ。

2013-01-01から1年間の記事一覧

プロフェッショナルでもなく、スペシャリストでもなく

岡本太郎の名著「自分の中に毒を持て」を読む機会にやっと巡り合えた。 「芸術=人間の復権」と説き、人間が人間らしくあるために誰もが「芸術家」であるべきだと主張する岡本太郎の言葉には誰もが強く揺さぶられるのではないだろうか。彼が言う芸術とは「生…

「セルフ・オブリタレーション」という自己療法-草間彌生「無限の網」

強迫観念に執り憑かれて逃れられない場合、我々に出来ることはその対象を自分の外にアウトプットすること、それしかないのかもしれない。アウトプットするといっても、強迫観念などというおぞましい怪物がさらりと立ち去ってくれるはずもあるまい。それはち…

ボーイッシュな心で男性服を見る

神戸のファッション美術館へ、「日本の男服」展を観に行ってきた。 ファッション美術館といえども、紳士服だけの展示は珍しいという。トラディショナルな紳士服というのはデザイン性よりも仕立てのよさで競う世界であるから、ともするとただ同じ服が並んでい…

一般論:「クリエイティブ」の意味するところ

「クリエイティブ」この言葉を耳にする機会は多く、ひょっとすると最近とくに増えてきたのかもしれない。それはたいていの場合いい意味で使われ、ポジティブな印象を人に与える。「クリエイター」(=創造者)という言葉は英語でも神を意味するそうで、とす…

「メタ」な高さのゆくえ

今日形而上学という言葉のイメージはあまりよろしくない。 20世紀の後半、名だたる哲学者は形而上学をあまり良いように考えていなかった。リチャード・ローティもジャック・デリダも、形而上学に対して否定的だ。経験を超越した実在について思惟する、学とし…

「偽装」という修辞法

偽装と言う言葉が建築や食品をめぐって何度も世間を賑わせてきた。「偽装」は流行語にさえなる。偽装の話題は、消えたと思ったら、しばらくするとすぐにまたおもてに現れてきて、結局はいたちごっこのように永遠に繰り返されるということを、我々はもう半ば…

SNS雑感

SNSにたいする幻想 SNSというものをはじめてまだ1年くらいしか経たないのだが、最近まで僕はこのSNSのもつ「バーチャル性」に、頭では気づいていてもなかなか実感できずにいた。 ようやくSNSが一般に根付きはじめて、社会で影響力を増してゆくなかで、SNSに…

ブランディング論を考える

近年、「個人のブランディング」という概念がもてはやされていると聞く。 企業のCIなどというのは、80年 代くらいからだろうか、よく話題にのぼるようになったわけだが、そこではつまり、あるまとまったコンセプトを設け、それを表現したロゴやキャッチコピ…

自我と対峙する アナーキズム-浅羽通明「アナーキズム」を読みながら

以前から僕の中で大きなテーマとなっているのが、「趣味から信念は生まれるか」ということなのだが、この問題を頭の片隅に置きつつ、浅羽通明「アナーキズム」を読みながら、アナーキズムについて考える機会を持った。 この本の冒頭に、ジョン・レノンの「イ…

思想的、概念的なモードー鷲田清一「ちぐはぐな身体」

鷲田清一の「ちぐはぐな身体」を読んでみた。 すべての物事が並列に並ぶ、ある意味スーパーフラットな時代に、モードがどうモードであり続けるかという問題に著者は触れている。 モード(流行)が氾濫し、「批判がすぐに批判の対象と同じ平面に並列されてし…

消費から 信仰から

「消費の対概念とは一体なんだろうか?」 先日のリースマンから、少しそういったことを考えることがあった。 無論常識的に言うと「消費」の対義語は「生産」であって、そういった意味では消費という言葉はそれ自体とてもネガティブな響きがあるようにも思え…

現代 アートを鑑賞する

はたして今日、作品を鑑賞するということがどのようにしてできるだろうか? 僕はしばしば、現代人のアートとの関わり方というのは、人と作品の「イメージ」に依っているように思えることがある。 もし芸術そのものに対して関心があるのなら、作品にたいする…

趣味から信念は生まれるかー「孤独な群衆」を読みながら

「信念に従って生きる」ということに、価値を見出す人は多い。 「芯をもっていて」、「ブレず」、「まっすぐに生きる」人はカッコいい、というのはよい人生観の典型。皆が異口同音に、いやむしろ、全く同じ口調でそう口にす る。僕も信念というものを大事に…

坂口安吾「日本文化私観」を読んだ

僕は小説を読んだことはないのだが、この「堕落論」を中心とする一連の評論を読み進めていると、どうも坂口安吾の無骨さが鼻につく。彼はそのなかで俗悪につ いて述べているけれど、彼は俗悪というより無骨で、なにかごつごつと貧相で野暮ったい、戦後らしい…

トニオ・クレーゲル

高校生のとき、「トニオクレーゲル」を読んで、僕は脳天を撃ち抜かれるほどの衝撃を覚えた。そこで描かれているのが、まさに自分のことのように思えたからである。 この小説で描かれていることを、自分のことのように思うというのは、あまり快いことではない…