my1988

思考と表現の練習用ブログ。

ボーイッシュな心で男性服を見る

神戸のファッション美術館へ、「日本の男服」展を観に行ってきた。

ファッション美術館といえども、紳士服だけの展示は珍しいという。トラディショナルな紳士服というのはデザイン性よりも仕立てのよさで競う世界であるから、ともするとただ同じ服が並んでいるようになってしまうとも思われるかもしれない。もちろん婦人服のような煌びやかさはないが、歴史に思いを馳せるのが好きで、ディティールの細かな違いにのめりこむのが好きな「男の子」には、この展示の面白さが伝わるに違いない。ちなみに僕は、そういう意味で展示がもっと「オタク」であってもよいと感じたのだけれど。いっぽうで「仕立て職人たちの格闘」と題されたセミナーはその点大変にマニアックであった。和田栄吉という今ではあまり知られていない仕立て職人がどんな裁断法を提唱したかなど、当時の資料を検証しながら語られたり、とにかく話が細かいのだ。こんな話は間違いなくめったに聞けるものではないだろう。

それはさておき、展示はというと、明治初年の勅任官の礼服に始まり、首の詰まった三つボタンの古いラウンジスーツや素朴な印象のフロックコート、テイルコートへ、そして、ヴァンジャケットに代表されるアイビースタイルの時代、最後にエドワードのコンチネンタルへと辿り着くようになっている。なかには三島由紀夫の「盾の会」の制服が、夏服、冬服と並置してあったりもして、なかなか見応えがあった。品数のヴァリエーションはもう少し欲しいところだったが、第一紳士服の展示の機会自体が少ないそうであるからそれは致し方ない。学芸員の方は、今回がほとんど初めてで、ひょっとすると最後かもしれないとさえおっしゃる。それほど難しいものなのかと、考えさせられた。

しかしそれにしても、同じ人間の着る服なのに、なぜこうも紳士服婦人服の溝は深いのか。このふたつには未だにかなり大きな隔たりがあって、ほとんど別ものである。もちろんフォルムや色のことを言っているのではない。「スタイル」と「ファッション」の違いのことである。婦人服が「流行」、つまり「モード」や「ファッション」と呼ばれるのに対して、紳士服は自ら「スタイル」と呼ばれることに偏愛する。こういう男性の「偏屈さ」にも似た異常な執着は、考えてみれば実に興味深い。ピーコック革命を経て、ヒッピーの時代を迎え、ストリートファッションが隆盛し、やがてファストファッションが繁栄する時代を迎えても、未だに男のファッションは「スタイル」から逃れられない。

「スタイル」というのは、たしかにいつまでも「同じ型」に対するこだわりを持ち続けるということをも意味するが、実際男性服も長い目で見れば確実に視覚的な変化を遂げているわけであるから、それは「スタイル」の本質ではないだろう。僕はほかにもっと決定的な「ファッション」との違いがあるように感じている。それは、簡潔性である。「スタイル」と言う考え方は、上質さや機能性、社会性などのどちらかというと簡潔な部分(concise)ばかりを重視し、情緒性などの感情的部分、つまり余剰性、あるいは冗長性(redundancy)とでもいうべきものを軽視するのである。

たとえば男性は、生地や仕立てが良いことにこだわりを持つ傾向がある。そしてミリタリーファッションのような合理的で機能的なつくりを、それが合理的・機能的であるということ自体への憧れから関心を持つ。そして、自分の社会的な立場に必要以上に配慮して服を選ぶように思われる。こうしたことはすべて、どちらかというと理性の範疇に属することである。男は理性で服を選ぶ、そんな印象が僕にはある。

いっぽうで女性の服選びは冗長性に富んでいる。「カワイイ」という感覚がそれを象徴する。言葉ではなく、その言葉の余韻によって良し悪しを判断するのである。実のところそれが本当かどうか確かめる術はないわけだが、僕はそんな印象を強く感じるし、また広く考えられているところであろう。女性がどのように服を選ぶかはさておいて、この冗長性こそ男性服にもっと取り入れられるべき要素ではないだろうかと、僕は感じるのである。

いつも思うのだが、男はどうしてもっと「気分」を共有できないのだろうか。スーツ好きはとくにそうだが、妙に理屈っぽい薀蓄の言い合いや論争ばかりが先に立ってしまう。「これイイよね」とか「これカッコいいよね」(あるいは「カワイイよね」のほうがもっと適格である)という、ロゴスでは割り切れない部分が女性のようにうまく共有できないのである。それは、男性服、あるいは男性の幹にロゴスの血が流れていることの何よりの証である。その同じスーツを、もっと情緒的な目で眺めてみてはどうだろうか。そしてそういった感想をもっと多く持つべきである。

簡潔で理屈っぽく頑固であるというイメージ、それこそが男性服の展示が一般に受けない理由だと僕は感じる。たしかに、伝統的ないままでの紳士服をそのイメージの外で語ることには大きな困難が伴うかもしれない。しかし、ダンディの美学というのは本来、ボーイッシュでロマンティックなもののはずである。べつに女の子と同じように情緒的であれというのではない。冒頭、「男の子」という言葉を使ったが、「大人の男」ならぬ「男の子」は、背伸びしたロジカルな語り方のなかにも甘い余剰性、センチメンタルで脆い憧れにも似た心を持っているものである。そしてそういった心はいつになっても胸に秘めているものだ。そんなもういっぽうの「男心」を、もう少し大切にしてもいいような気がする。

少なくとも僕は、「ボーイッシュな心」で服と接していたいと強く思うのである。

 

一般論:「クリエイティブ」の意味するところ

「クリエイティブ」この言葉を耳にする機会は多く、ひょっとすると最近とくに増えてきたのかもしれない。それはたいていの場合いい意味で使われ、ポジティブな印象を人に与える。「クリエイター」(=創造者)という言葉は英語でも神を意味するそうで、とすればこの言葉はよくよく考えてみると物凄い力を持っているわけである。この対義語はと考えてみると、「被造物」(=creature)と言う言葉が思いつく。翻って、化け物や家畜や手先の者といった侮蔑のニュアンスまで帯びてくることになる。

一般的に言って、たしかに「クリエイティブでありたい」という願望は誰もが必ずしも抱くとは限らないかもしれない。しかし、ごく普通に生き、ごく普通に生活することになんの不満のない人であっても、人生を「更新」する必要には誰もが直面している。

たとえ自分が何にも変わりたくないにせよ、今日が終わり、明日を生きるためには、今が終わり、次の瞬間を生きるためには、少なくとも時間だけは更新されてゆくことになる。この時間の更新と並行して、頭の中の観念も、思考も、知覚も次々と更新されてゆく。この更新の感覚はクリエイティブな印象を我々に与える。かりにネガティブに落ち込んでゆく場合であっても、それはけして被-創造的ではありえないのではないだろうか。なぜなら、時間という観念において「私」は何ものかに更新され、「私」の歴史が延長されてゆくからだ。人はこの感覚を道が開拓されてゆくことによくなぞらえる。たとえば、「僕のまえには道はない。僕の後ろに道はできる」といったようにだ。

そうして考えれば、人生は未知なる時間を開拓して歴史を延長させてゆく営みだと考えることができる。そしてその意味では、「私」は、「私」の創造者であるということにもなる。

もちろんこうしたことはごくごく私的な意味しか持ちえないのは言うまでもない。私的な完成への道で、人は誰でも創造者の気分を味わえる。「明日を変えるのは自分」といった表現のように、私的歴史においては同時に革命家にもなりうる。

だが、それだけでは本来の意味でなんらクリエイティブであるとは言いにくい。自己の創造はそれだけではクリエイティブではない。少なくとも何らかの公共性を持ちえなければ、創造性があるということにはならないだろう。

一方で、「公共的に」クリエイティブであるとは、どういうことだろうか。すると話は途端に難しくなってくる。たしかに、その単純明快な答えは即座に思いつく。「公共の歴史を更新すること」こそクリエイティブであり、「公共の歴史に残る人」がクリエイターだというのがそれだ。しかし、ではたとえばTIME誌の表紙を飾る人たちはすべてクリエイターだろうか?というような疑問が湧く。もちろん、国王や大統領や実業家がクリエイターでないと言いたいのではない。僕が言いたいのは、かりに村上春樹草間彌生TIME誌に載ったとしたとしても、それはクリエイターとしての「証」にはなるかもしれないが、クリエイターであることとはなんの関わりもないように思えるのである。やはり創造という行為は、もっと何か本質的に「私的な」領域なものではないだろうか。

ところで、クリエイティブという言葉の持つポジティブさと言うのは、その究極の能動性にあると僕は思う。自分の力でこの世に未だなかった何かを作り上げることこそ、クリエイティブなことだ。言い換えれば、それはまさに「消費」でなく、「生産」してゆくことを指している。そして、それは本質的な部分で「複製」ではなく、「オリジナル」でなければならない。クリエイターと言って真っ先に思い浮かぶアーティストのような人たちは、作品の生産というどちらかというと私的な行為から(それはたいていアトリエなどの私的要素の強い空間で生み出されることを考えればよい)、公共的に有意味な何かを生産することを実際に行っているといえる。そして、それらのなかでクリエイティブなものは、「オリジナル」なものである。どの点でオリジナルであるかは作品によってまちまちではあろうけれど、創造という行為の定義からオリジナリティーという概念を剥奪することは極めて困難だ。新しさと独創性。この二つの条件に加えて、「それが公共的に何らかの意味を持った場合」にこそ、クリエイティブなものであると言うことができるだろう。

しかし、「私」から「公共」への跳躍をうまく説明する方法には、どんなものがあるのだろうか?僕にはまだ見つかっていない。

 

「メタ」な高さのゆくえ

今日形而上学という言葉のイメージはあまりよろしくない。

20世紀の後半、名だたる哲学者は形而上学をあまり良いように考えていなかった。リチャード・ローティジャック・デリダも、形而上学に対して否定的だ。経験を超越した実在について思惟する、学としての形而上学は明らかに時代遅れだから、終焉するのは致し方ない。それにしても、気になるのはそうした批判が「メタフィジカルなもの」に対して一般に与える影響だ。これはたしかに形而上学の終焉とは直接に関係がない。関係がないにせよ、その終焉が通俗的な意味でも大きな影響を持っていることは間違いない。その影響として真っ先に浮かぶのが、人々が頭の中に空想や思索の城を造らなくなったのではないかということである。ローティやデリダの口調には「哲学がいつまでも思弁的に堅固な城塞を作っていていいのか」というニュアンスを強く感ずる。まさに引きこもって悶々と空想を巡らす、そういう態度自体が批判されているような印象を受けるのだ。

人は形而上学的という言葉に対して、どんなイメージを抱いているだろうか?

通俗的には、日常的な(=低次の)思考から遠く離れた、より高次の、抽象的な思考を指すのだろう。形而上学「的」なものとは、難解で浮世離れしていて、おおよそ生活の役に立たないようなものの謂いであるといってもよい。それは、難解で非日常的であるがゆえに、日常より一段上の「高次の世界」のものと見做される。むろんそれが難解で非日常であるがゆえに形而上学的であるとは必ずしも限らない。その逆のほうがむしろ正論である。形而上学的である結果、難解で非日常的になるのだ。しかし考えてみれば、高次な概念というものがどれだけ崇高なものか知れたものではない。「高い」という文字に騙されてはいけない。それは通常の語彙ではとても捉えきれない内容を扱うから「高い」のではなく、同じ語に若干の語彙を付け足して、それをたんに全く別の目的のために用いているだけのことで、そのことを我々は「高い」と表現している、それだけのことではないだろうかと思うのだ。

馬鹿となんとかは高いところに上るというのではないけれど、それにしても人間というのは本当に高いところが好きだ。高さと言っても多様である。収入の高さ、人気度の高さ、身長の高さ、プライドの高さ、クオリティの高さ、人はたいていなんでも低いより高い方を好む。そして高さを競い合う。さまざまな意味で互いに高さを競い合っている相も変わらぬ人間社会のなかで、しかし形而上学的な意味での「高さ」は、日を追うごとに評価が減じられつつあるのではないだろうかと思える。

形而上学が終焉したのだったらそれは当然のことのようにも思えるのだが、僕はこの疑問をあくまでも表向きの話として考えている。というのも、もちろん我々の個々の頭のなかでは、形而上学的な「深み」のある考えが少しもなされていないわけは絶対にあるまいからである。たしかにそれが思想や社会評論に結び付くことは減ったかもしれないが、少なくとも私的な意味においては、人はいつの時代も思わず深い考えを巡らすものである。この「深み」というのには、二重の意味がある。考えがメタフィジックであるという「深遠さ」と、それが闇に繋がっているという「深淵さ」の意味である。このふたつの深さは、うまく説明できないが、その本質的な部分でどこかで結び付いている。だからこそ、日常においては形而上学的な考えというのはネガティブな意味しか持ちえず、何のとりえもない無駄なものになりがちなのだ。そういう意味では、形而上学的な深みというのは、敬遠される向きがある。第一にそれが役に立たないからで、第二にそればかりでなく、それが「闇への連絡口」ですらあるからである。

形而上学こそ、余暇を知的に過ごすために考えられたいわゆる「スコレー」の類なのではないかと思うわけだが、今日においても、闇を覗きたいという好事家たちはなお形而上学的なものに取り憑かれてやまないのかもしれない。西洋中世の謎めいた絵巻物を愛好するように、好事家たちは形而上学に群がる。そしていつ果てるとも知れぬ、尽きない思弁を頭の中で永遠と繰り広げるのである。そういった特殊な人を除けば、普通はそうした考えは闇に閉じ込めたままにしておくか、それができない場合には偽装してうやむやにしてしまうであろう。永遠に結論の出ない形而上学は、日常生活では一旦保留にしなければならなくなるのだ。

ところで、判断を保留にしながらでも、はたしてこの営みを続ける価値があるのかということが問題である。学としてこの道を追及する道が閉ざされたとしても、こうした営みをなお私的にやりつづける意味が果たしてあるのだろうか。僕はあるとすれば、それは鑑賞する価値においてではないだろうかと思う。そうすると哲学書は文学作品のようなもので、思索はいわば体験型のコンセプチュアルアートのようなものに見立てることもできよう。つまり「味わうもの」として価値があるというわけである。形而上学的な思索には、味わう要素が多分にある。それは非日常な用法で言葉を操り、自在に世界を構築して、その作り上げた城塞の頂上から日常を俯瞰する幻覚を我々に起こさせるに十分であるからだ。形而上学は、我々を高いところへ連れて行ってくれる究極のゲームではないだろうか。

しかし、それにしてもこういう趣味のゲームは近頃まったく流行らない。そしてこの傾向はもうここしばらくずっとやまない。形而上学的な趣味は、「余暇」の使い方としてまったく需要がなくなってしまっているし、ますます需要がなくなっていくように思われるのだ。誰もそういう高さを求めなくなったし、求められもされなくなった。そしてあまり議論されることもなくなった。それは文学の低迷とも根を同じくした問題であるように思われる。言い換えればスコレーという余暇の使い方そのものが流行らないのだともいえよう。

それにしてもなぜ、スコレーが流行らなくなったのだろう?

この答えはいくつか用意されているように思うのだが、またの機会に考えてみたい。

 


「偽装」という修辞法

偽装と言う言葉が建築や食品をめぐって何度も世間を賑わせてきた。「偽装」は流行語にさえなる。偽装の話題は、消えたと思ったら、しばらくするとすぐにまたおもてに現れてきて、結局はいたちごっこのように永遠に繰り返されるということを、我々はもう半ば知っている。

「アメリカ音楽文化の歴史は偽装の歴史である」といったようなことを、昔、本で読んだことがある。僕はしばしばこの本のことを、結論の部分だけ思い出す。「偽装の歴史」とは、よく言ったものだ。僕は、それがアメリカの音楽文化を特徴づけるのかどうかよく分からないのだが、我々はいつだって、ともすると「それは偽装じゃないか」といちゃもんをつけられそうなことをこっそりやりながら生きているのではないかと、ときどき思うことがあるのだ。この偽装というのは、自分を、つまり自分の身分や、自分の心をである。無論日常的な偽装はたいした偽装ではないのかもしれないが、なにか大失敗をやらかしたときなどは、「そうか、自分を偽っていたからこんなことになったのか」と反省する局面が必ず来る。今日書きたいのは、そのような「私的な偽装」のことである。

こうした類の偽装というのは、一種の自己欺瞞だ。だから、ばれなければよいというものではない。というよりも、隠し続ければ隠し続けるほど、自分を欺くことになるし、社会的な偽装問題ほど誰も関心を持っていないから、告発さえされない。これを告発できるのは、自分ただ一人である。よその人は、彼の偽装が迷惑だとか不愉快だとかと思うかもしれないが、知らぬ話である。誰も面と向かって告発までしてくれない。

だいいちそれが本質的に偽装かどうかさえ誰にもわからない。なぜなら、「何を」偽っているのか、その本来の正しい姿とは何かを誰も知らないからである。偽るというからには、なにか本当のことがある。生の果実を絞ってフレッシュジュースはできるし、チョウザメの卵を塩漬けしてはじめてキャビアと呼ばれる。それが加工品のジュースやトビウオの卵だったら、フレッシュジュースでもキャビアでもない。だが、心というものは、偽らざる本当の姿が何かというのがいまひとつはっきりしない。だから自分が偽装しているかどうかの究極の根拠を、我々はついに見つけることはできない。

僕は一度、「人間というのは、偽装して生きてゆくものだ」と考えてみたことがある。人間は偽装して、偽装して、偽装を続けてゆく。そして、その偽装をし通したものこそ真の勝者なのではないかと。

いくぶん戯悪趣味な考え方であるが、本心と言うものはそんなに人前で剥き出しにできるものでもあるまい。だいいちその本心とやらを自分だってよく知らないのだ。それはひょっとすると長い人生のなかで次第に明らかになっていくようなものである。歴史が、本心の多くの部分をあとから決定してゆくのかもしれない。であれば、ひとまず偽装するしかあるまい。偽装して体裁よくしておくほかないであろう。どうせ偽装するのだったら、体裁よくしない法はない。見せたくない部分は隠し、見せたい部分だけをできるだけあざやかに見せる。たとえば発声から、表情から、言葉の統辞まで塗り替えてしまう。こんなことを案外人は、半ば無意識的にでも、平気でしているのではないだろうか。

僕がポジティブで魅惑的で、信用のおけそうなものを見ると、そうしたささやかな偽装を感じずにはいられないのは、自分がそんなことを常日頃からしているからなのかもしれない。だがむろん僕はいちいちひとの偽装を告発する必要もない。何をもって偽りとするか客観的な基準を知らないし、それを偽装すること自体が悪いことなのかどうかもはっきり分からないからである。僕はただ不愉快であったり、利害が対立した場合にだけ、それを指摘する。それも告発ではなく、指摘だ。この種の偽装を告発できるのは、やはり本人しかいないだろうからだ。

ささやかな偽装も、続けているうちにともするとだんだんと大きくなってゆく。いずれは限界点に達して、あるとき突如として破裂を迎えることになるだろう。それは、絶望の裏側である。絶望とは理想が裏切られた状態だ。理想が裏切られたとき、自分の偽装を恨まなければならなくなるというのは、逆に言えば理想へ向かって進んでいくためには、偽装を続けることをやめることができないということの証拠だ。理想に向かうための方法として偽装する。それはやむなくすることであるには違いないが、そう考えると偽装は少しばかりポジティブでもあるように思う。それはいわば人生の修辞法のひとつではないか。混沌からあるひとつの人生を形作ってゆくその過程で、偽装は残念ながらやむを得ない。偽装なしで人生は済まないのだ。

それにしても、「偽装し通したものが真の勝者だ」というまえの説は、我ながら受け容れがたく思えてならない。そんな出来過ぎた虚偽の人生にはとても幸福の片鱗さえ感じられない。そのような者の世界は、残酷で哀れな「ヴァニティ・フェア」であるにちがいない。身分を偽り、人生を偽り、心を偽る。偽ることの罪悪感を常に胸にしながら、絶望を繰り返し、またあらたに偽装を続けてゆく。

―とはいえ多かれ少なかれそんなことは誰だってしているのだ。だからむしろ、やり通す必要もなく、やり通したところで勝者でもなんでもない。偽装は早く破裂すべきである。絶望して自分と向き合う時間は、できるだけ無傷なうちに訪れるほうがよい。偽装が破裂したときに直面する「顕わなる自己」をいかに見つめられるかということにこそ、勝者への道が懸っていると思わなければならない。

絶望の後のあらたなる偽装が、それ以前の偽装よりも少しは正直になっていなければ、救いがないというものだ。

 

 

 

SNS雑感

SNSにたいする幻想

SNSというものをはじめてまだ1年くらいしか経たないのだが、最近まで僕はこのSNSのもつ「バーチャル性」に、頭では気づいていてもなかなか実感できずにいた。

ようやくSNSが一般に根付きはじめて、社会で影響力を増してゆくなかで、SNSに抱いていた幻想とでもいうべき極端なイメージは、少なくともユーザーのあいだでは徐々に「実感として」崩れ始めているような気がする。僕の場合、それがここ数か月の間に起こりはじめたのだ。

個人的な話はよすとして、SNSを「目的」のように語る時代は多かれ少なかれもうすでに終わっているのだろう。「目的」というのは、SNSで発言することや友達を作ることがそれだけで意味を持つというようなニュアンスである。FacebookTwitterなどについて言えば、「とりあえずはじめてみる」と言っていた人たちは、もうSNSについて一通り理解し終わっていて、利用価値がないと判断した人はすでに見切りをつけているようだ。個人情報を曝すリスクを恐れたり、友達づくり自体に疑問を持ちはじめたという人もあるだろうが、なかには「SNSに対する期待が裏切られた」という人もいるのではないだろうか。

SNSは我々に何を期待させたのだろう。それは人間同士の「より」密なつながりである。会社員は同輩や上司、部下とのより密接な交流を期待した。あるいは趣味や関心を同じくした「出会わざる隣人」とのより近い関係を期待した。大学や出身が同じひとをより近づけることに期待した。クリエイターや自営業者なら、自分や会社の存在をより直接にアピールして、よりよい仕事ができることに期待した。ひきこもりは、自分がより社会に結び付くことを期待した。

いいかえれば、人間関係がよりフラットになることを、我々は期待したのだと思う。その先には、いままでの生活を規定してきたさまざまな秩序、階層、固定概念から解放されることを我々は望み、いまもなお望んでやまない。

もちろんこれらはすべて、何ら裏切られてはいないように思う。少なくともSNSは、世界をよりフラットに感じる機会を我々に与えてくれている。そして、そのフラットに感じられる機会を、いままでよりもずっと深みのある世界に延長していけるようになりつつあると僕は思う。

しかしその「より」というのが、実のところ期待以上でも、期待以下でもあった。たしかに交流はいままでにないほど密になったが、現実の生活と同化して生活の一部分になってしまうと、逆にその密な交流がそれ自体では魅力的ではなくなってしまったわけである。

たとえばつねにタイムラインをチェックしていなければならなかったり、夜中にダイレクトメッセージやリプライに返事をしなければならなかったり、ある意味においてそれは日常生活を束縛するほど人間関係を密にしている。いっぽうで、SNSにいくら時間を割いても、SNSをしている限りコミュニケーションの相手はいつまでも壁をはさんだむこう側にいるままである。「より」相手に近づくことはできたかもしれないが、実際に会うことを考えると、はるかずっと遠い気がするのは当然である

バーチャル/リアルの話

もちろんこういうことは、「バーチャル」のコミュニケーションの問題として永遠に付きまとい続ける。まず非同時性や不可視性といった制約は今のところ致し方ないが、これは今後もっとフラットになる余地が大いに残されているだろう。いっぽうで、相手との物理的な距離、こちらは、それ自体ではどうしても埋まりようがない。これは非同時性や不可視性が技術の進歩によって改善されると、確かにある程度は解消される。しかし、それを差し引いて残るのは、純粋に感覚的な距離をいかに疑似的に近づけるかという、奇妙な問題である。この問題は実に奇妙だ。よく考えてみれば、いわゆる「リアル」のコミュニケーションにおいてさえも、我々は自分の身体という壁を超えることはありえないからだ。もちろんこのような問題を持ち出したのは、バーチャルのツールが常にリアルの連続性を指向するという背景があるからだ。本来、連続性というものは頭のなかにしか存在しない概念である。我々は「より」連続性を獲得せんとして努力するが、結局あらゆるものはなにかしら壁を隔てて存在する。それはバーチャルでもリアルでも同じことだが、ただバーチャルのツールは、リアルというモデルをひとつの連続的なものと見做して、それを模倣し、いわば「第二のリアル」に挑戦しているといえる。この考え方自体が、はたして適切なものかどうかはわからないが、人工の道具というものは、いつもそうした宿命を負っているものだろう。

当然のことだが、「第二のリアル」はオリジナルのリアルとの関係において、もちろんまだまだ起伏があり過ぎて不自由極まりない。バーチャルはある意味において際限なくリアルを模倣し続ける宿命にあるわけだから、どこまでもリアルを追いかけてゆくのだろう。しかし、そんな不自由さを尻目にして、コミュニケーション自体は案外滞りなく「成立」しているように見えるのだ。それは「実際に超えるべきものはけして空間上や時間上の距離ではない」というようにも解釈できる。もしこの話を延長してゆくなら、身体を、ディスプレイを、比喩的な意味でいかに「超越して」ゆくかという、いかにも神秘的な(あるいは胡散臭い)話になるわけだが、この先には何の答えも用意されていないように思うのでここまでにしておこうと思う。ただこの話ほど、リアル/バーチャルの二項対立を無意味にさせる特効薬は他にないだろう。

いずれにせよ、バーチャルにもリアルにも絶対に越えられない壁があり、それは超える「べき」壁で、永遠に超える「べき」まま残される壁なのだと僕は思う。

ツールとしてのSNS

では、たんにコミュニケーション「ツール」としてのSNSは、どれくらい人間同士のつながりを密にしただろうか。たとえば人間同士の社会的関係はいかにフラットになっただろうか。それについて考えてみると、「入り口」は確かにフラットになった。誰でも始められ、誰とでも繋がれる。しかし、それは永遠にフラットであり続けるとはもちろん限らない。現実の生活のような多面性を持ちえない分、SNSではすべての友達やフォロワーに対して、見かけ上の人格のフラットさを要求される部分は大いにあるだろう。それをフラットなままにしておこうとすると、かえって踏み込んだ発言ができなくなってしまうような気がしてならない。もしそういう人がいるとしたら、彼はSNSをツールとして満足に使いこなせているとはいえないだろう。たしかにSNSにおいては、リアルと同じく言動にたいする責任が多分にある。これは2ちゃんねるなどとは違って、それよりもずっと重い責任である。だからこそ、透明な関係がネット上においても築けるのはいうまでもない。しかし、SNSにおいて執拗に「立場」を考えなければならないとすれば、どうだろうか。実に使い勝手の悪いツールとはならないだろうか。なぜなら、「立場」から解放されてこそフラットな空間として機能し得ると僕は思うからだ。

この、立場から解放されるとはどういうことだろう。少なくともそれは、システム上の改善だけでは解決しないような問題である気がする。これは利用者個人が、いかにSNSを使うかという意識の問題と多分に関わっているのではないだろうか。たとえば、複数のSNSを目的に応じて使い分けるというのは至って自然なことであるし、そのSNSによってスタンスが微妙に違うのも別に悪いことではないはずだ。少し極端に言うと、同じユーザー名で複数のSNSに登録し、あるSNSではプライベートの写真を挙げ日常の話、もう一方では自分の経営する会社や仕事の話、別のところでは政治や思想を語る。これは時間的にも、精神的にもそう簡単にできることではないし、ある意味リスキーでもある。しかし、この自分の「分身」たちをいかに統合していくか、というよりそのオーバーラップする部分にいる自分自身とは何かを改めて捉えなおしてみることは、案外役に立つかもしれない。

意見を言うためのツール

SNSが政治や社会で活用され始めようとしつつある。SNSによって直接民主制が可能になるかもしれないと言った思想家もいるらしい。それならば、発言に責任を負いつつ「いかに踏み込んだ」内容を語り得るかということが今後問題となるだろう。そう考えたとき、TwitterFacebookなどの初期のSNSは、5年後には今のような普及度で機能しているだろうかという疑問が湧く。もっと強力なオルタナティブが登場するかもしれないし、多様な目的のSNSがそれぞれの機能を果たしているかもしれない。いずれにしても、「意見を言う」ツールとしてのSNSが、もっと整備されてくるように思うし、そう願ってもいる。このためには、きわめて現実的な意味でのシステムの進歩と、システムの信頼性が要求されることはまちがいないだろう。

SNSへの「幻想」が一段落した今、ともかく我々の主要な関心事は、リアルとの距離を縮めてゆくことではなくなったと言ってよいのではないだろうか。そうではなく、アクチュアルにSNSを活用していくことのほうがますます重要になってきているような気がしてならない。

 

 

 

  

 

 

 

ブランディング論を考える

近年、「個人のブランディング」という概念がもてはやされていると聞く。

企業のCIなどというのは、80年 代くらいからだろうか、よく話題にのぼるようになったわけだが、そこではつまり、あるまとまったコンセプトを設け、それを表現したロゴやキャッチコピーを 徹底的に作って、統一性があってインパクトのある企業イメージをいかに消費者に持たせるかということこそ、企業繁栄の最重要課題とされたのである。

このコーポレーション・アイデンティティーという概念は、たくさんの、スマートで、モダンで、機能的で、非常に「意識された」システムやロゴデザインを生み 出し、それによって多くの企業や官公庁が、現代的で信頼できるキラキラとした存在に甦った。お堅い企業も、官公庁も、その「ダサい」イメージを払拭しよう と、ここ30年くらい必死のようである。最近では、モダンにキマったのが逆にダサいのではないかと、「ゆるキャラ」づくりがブームのようだ。モダン路線にせよ、カワイイ路線にせよ、CIを導入した企業が、いままでにない存在感を放って、堂々と産業界で活躍できるようになった例は、数えきれないほどあるのではないかと思われる。

このCIのような発想を、個人のパーソナリティーにまで持ち込もうとしているのが、いま問題にしている個人の「ブランディング」論である。ネットのニュースなどを見ていると、個人のブランディングを勧める啓発書が多数売られているらしく、影響を受けている人も多いにちがいない。

僕の周りでも、「ブランディング」について語る人は多い。とくに作家や芸術家を目指している人などは、自分自身をどう売り込むか、戦略を練って臨まなければ ならないわけであるから、「ブランディング」という意識を人一倍持っているのではないかと、話していてつくづく思うのである。 

僕自身店をしているので、そういった人たちの影響を受けつつ、絶えずブランディングについて考えているようなこともあった。自分がどう振る舞い、何について どう喋るべきか、どんな表情をしているべきかなど、これをいったん考え始めたらほんとにキリがない。そんなときテレビを見ていたりすると、そこではしゃい でいる芸能人や真面目な顔をしたニュースキャスターが、いかにその場で「演じ」なければならないか、不必要に考えつめてしまって、たいへんな仕事だなあと しんみりしてしまうわけだ。

しかし最近、この「ブランディング論」は、本質的に深い問題を抱えているように感じてならないのである。なぜなら、それはたいていの場合、「キャラづくり」 と同一の地平で語られているのではないかと思うからである。もちろん、「キャラづくり」より一段上のレベルに、「ブランディング」はある。場の空気に準じ てキャラを変えることはあるかもしれないが、本来ブランディングは絶対にブレてはならない。「自分とは何か」、「自分はどういう存在でありたいか」を研究 し、綜合的に分析して、自分をどう「見せる=魅せる」べきかを考える。自分という「ブランド」を創出してゆくということは、キャラなどということよりも ずっと高次のことであるはずである。

自己分析と、それに基づく自分像の設計といえば、なにかスッキリしそうで、誰だってやる気が湧く。たいていの人は、こうしたことにまんざらでもない興味を持 つようである。それが職業的にプロを目指すという目的の場合、このブランディングという行為が欠かせない世界はたくさんあるはずだ。ホテルマンや客室乗務 員などのサービス業や、放送関係は言うまでもない。そうでなくとも「その道のプロ」には、それなりに振る舞いや言動に定められた約束と目指すべき理想があ るものである。そういったことがその人のパーソナリティとなっている場合もあれば、一線を画している人もある。

ブランディングについて語る人の話を聞いていると、あたりまえのようだけれども、目指す先は「等身大の自分」などではあるはずもない。ブランディングの願望 の本質は、簡単に言ってしまうと「キラキラしたい」「モテたい」という社会的成功と自己承認に関する願望であり、その下位にはおそらく「評価される職業的 地位」や「評価される収入」に関する願望があるのだということになるだろう。もちろんこれは自然な欲求だし、ブランディング論以前の問題でもある。キラキ ラしたいがために自分を分析し、人生設計を思い描き、それを日常の行為において実践するということは、わざわざブランディングを持ち出すまでもなく、昔か ら普通に行われてきたことのはずである。

いっぽうで、ある世界、業界、あるいはコミュニティのなかでは、自分に課せられた役割を「演ずる」必要に誰もが直面するのも現実である。そこでは各人は役者で あり、ロールプレイヤーである。先に述べた、職業的にプロを目指すためのブランディングは、業界の中でいかに「演ずる」かという試行錯誤である。それはあ くまでも、本来のパーソナリティとは何のかかわりもない。

僕が「ブランディング」について思いを巡らしていて気付いたのは、この全く異なるふたつのパーソナリティ、つまり個人的パーソナリティと、ロールプレイヤー としてのパーソナリティが、考えているうちにだんだん境界を失ってしまうという点である。実際にはこれを全く切り分けて考えることのできる人はそれほど多 くないであろう。超然と二面性を持って生活するということは、並大抵の人にはできることではない。たいていの人は、それぞれのある部分を犠牲にしながら、何とかパーソナリティ全体の統合を維持しているのではないだろうか。 

パーソナリティーを分析し自覚するということは、本来ならば実に重大かつ困難なことのように思える。それは「心の哲学」にもかかわる。自分の心というものは、 自分が最もよく知っており、かつほとんど何も知らない。それは謎めいた厄介な対象だ。そんな複雑で掴みどころのないパーソナリティを、あたかも企業イメー ジを作り上げるかのように意図的にフラットにしてゆくことが、果たして重要だろうかと、僕は疑問に思うのだ。二面性、あるいはもっと多面的であるかもしれ ない自分のイメージを抽象するということは、多くの「自分らしさ」を捨象するということでもある。捨象した「自分らしさ」は、「抑圧された」パーソナリ ティともなりかねない。そんなリスクまで犯して、我々はわざわざ「自分像」を加工し再生産しなければならないのだろうか。職業的な洗練なら、その範疇のな かで考えればよいし、個人的パーソナリティの問題なら、ブランディングではなく、もっとどこまでも深く鋭く考察してゆくことを目指すべきだと思うのである。

ましてや、それを「キャラ」の地平で考えてしまうのでは、人間があまりに平板化してしまいはしないか。ロールプレイヤーが「演じる」ものとしての「キャラ」 は、いわば「役」である。それは楽しんだり、職業的に必要ならばこなせばよい。しかしこの「キャラ」、つまり役を演ずるパーソナリティは、あくまでも仮構 概念としてのみ成立する。実際には、役に徹することなどできないのだ。いかに役を演じているときでも、そこにあるのはやはり複雑で掴みどころのない当の パーソナリティ、そのものなのではないだろうか。

だからこそ僕は、与えられた状況の範囲内でいかに自分らしく振る舞うことができるか、このことこそ必要だと思うのである。もし自分らしく振る舞いたいのであ れば、自分の平板なイメージ作りなどをするより、むしろより純粋で見返りを求めない自己分析のほうが重要だと思うのである。そうした自己分析を積み重ね、 試行錯誤をしているうちに、自然とあるべき自分の姿でいられるようになる。

そういう人間の深みを追及する態度が、もっと勧められ評価されてもいいのではないだろうか。

 

 

 

自我と対峙する アナーキズム-浅羽通明「アナーキズム」を読みながら

以前から僕の中で大きなテーマとなっているのが、「趣味から信念は生まれるか」ということなのだが、この問題を頭の片隅に置きつつ、浅羽通明アナーキズム」を読みながら、アナーキズムについて考える機会を持った。

この本の冒頭に、ジョン・レノンの「イマジン」と、ジョニー・ロットン「アナーキー・イン・ザ・UK」の歌詞が全文横並びで掲載されていて、アナーキズムの二つの側面、すなわち夢想家的な側面と闘争的側面が対照されている。

この闘争的側面というのは、すなわちテロリズムと言ってしまっても過言ではない。 それも組織的テロではなく、ほとんど一個人によって行われる孤高の、あるいは孤独のテロリズムである。あらゆる権力や権威を否定し、個人の絶対的自由を求 めるアナーキズムは、国家はもちろん、志を共にするアナーキスト同志たちによる、権力の掌握も否定することになる。 

こうした事情から、アナーキズムの闘争的、行動的な側面は、歴史的には大正期の治 安維持法による弾圧を境に退潮し、アナーキスト自身もまた、アナーキズム自身の持つ大きな自己矛盾するふたつの「原理主義」-すなわち権威自体を全否定す る原理主義と、すべての自由を全肯定する原理主義によって、革命も、新しいユートピアが実現した際の統治あるいは運営にも具体的なビジョンが思い描けず、 非現実的で不可能なのではないのかという大きな壁を乗り越えることができずに、行き詰まりを見せる結果になる。行動としてのアナーキズムは、いまのところ この壁を乗り越えられていないだろう。

それによってアナーキストは、夢想家的側面をいっそう多く持つこととなる。絶対的な自由と、いかなる権威にも追随しないというユートピアは、社会的完成にではなく、より多く私的完成に対して思い描かれる。ソヴィエトという社会実験の失敗によって、60年代のようにマルクス主義などの左翼思想に転向することも現実性がなくなった。埴谷雄高スターリニズムを批判したように、その原理主義ゆえに左翼思想のなかで真っ当な批判のできたアナーキズムも、徐々に対抗・対立する相手自体を失ってしまったように見える。 

こうして、かつてのアナーキストのような理想を持つ人間に残された道は、戸惑いつ つも資本主義や国家という体制・権威を半積極的に受容して二面性のなかに居場所を見つける「肯定的夢想家」と、一切の体制・権威を容認しないと意地を張る 「否定的夢想家」の道に分かれるのではないだろうか。この肯定的夢想家は、どこまでアナーキストと呼ばれうるのか危うい人たちである。否定的夢想家は、徹 底すれば「ひきこもり」になるしかない。つまり、アナーキストは、思想家としての居場所が全くなくなってしまったのではないだろうか。

理論的支柱がなく、またそれ自体を嫌うアナーキズムは、その意味においては誰にでも門戸が開放されている思想だと言えるかもしれない。ただ真面目にアナーキストたらんとすれば、「自我」と「自由」について途方もない思案に暮れなければならないことになるにちがいない。 

近代文明を悩ませ続けてきた大問題こそ「自我」と「自由」の問題だったわけだから、アナーキズムは現代思想の大問題を純粋に、純粋過ぎるほど追及し続けてきた思想だと言える。そしてそれがあまりにも大問題ゆえ、行動は挫折し、居場所さえ失ってしまったのだろう。

僕は、「趣味から信念は生まれるか」という一見ゆるい話が、実は「夢想家が行為者 になり得るか」という問題と同義であるように思えてならない。それは社会的なユートピアの実現には程遠いが、私的な完成、すなわち「確たる自我の獲得」に とって、信念を持つことが行為することに幾らか役に立つように思えるからである。それは感性や知性を研ぎ澄まし、自らの存在を確信してゆくということにほ かならない。

アナーキズムは信仰に否定的な態度をとる。そして、確たる自我から絶対の自由へ向かって跳躍する。このアプローチは、まさしく趣味から信念を形成してゆくアプローチと重なり合うようには思えないだろうか。